2015/05/24

1歳の娘の「自分からやりたい気持ち」を尊重するために親ができること

2015年、1歳の娘が4月から保育園に行き始めました。もうすぐ5月も終わるので、約2ヶ月の保育園生活を送っている状況です。

先日、保育園のクラスごとに開催される保護者会に参加してきました。クラスは年齢ごとで、娘が入っているのは1歳児クラスです。

保護者会のプログラムは大きく2つでした。

前半にクラス担当の保育士から保育園の方針や子どもたちの普段の様子の説明があり、その後は小グループに分かれ子育てについてのフリーディスカッションでした。

後半は、親が子どもたちのいる教室に移動し、子どもがおやつを食べる時間を一緒にすごすというものでした。

保護者会に参加することで、色々とおもしろく、特に保育園での方針であったり、1歳児への子育てアドバイスが参考になるものでした。

■自分がやりたい気持ち/意欲を尊重する

園の方針の中で印象に残ったのは「自分がやりたい気持ち/意欲を尊重する」というものでした。



自分の娘を見ていると、以前は親がやってあげていたことも、彼女なりに自分でできるようになっています。

例えば、食事。保育園に入る前は親が食べさせてあげることもしばしばでした。今では自分でスプーンを使ったり手で直接つかんだり、飲み物やスープなどはコップやお椀を両手で持って自分で飲めるようになっています。

服の着替えも、着せる時には自分から手や足を服に通そうとしたり、脱ぐ時も両手をバンザイさせるなど、少しでも自分から着脱をやろうという気持ちを感じます。

こうした子どもの「自分がやりたい気持ち」をできるだけ尊重し、(親がしてあげるより)時間がかかっても、うまくいかなくても、見守り、子どもがやっていることを見守る姿勢が大切だと、保護者会ではあらためて感じました。

■プロセスを褒める

1歳くらいになって自分がやりたい気持ちが芽生えてくることにも関係しますが、その気持ちに対して褒めてあげることで、次はこんなことをやってみようという意欲にもつながります。

褒め方としては、新しく何かができるようになったことを「◯◯ができるようになったね」と言うことがあります。例えば、保育園の先生やお友だちにおはようなどの挨拶が言えるようになったことや、階段の登り降りが自分だけでできるようになったことに対してです。

保護者会でなるほどと思ったのは、こうしたできた結果だけではなく、プロセスについても褒めてあげてください、と説明を受けたことです。

それを聞いた時に思ったのは、娘が自分なりに何かに挑戦し、結果としてうまくいかなかった時に、できていなかったことでした。

例えば、自分から服を着ようとするシーン。娘の場合は、ズボンを履こうとしてもズボンの片方に両足を通そうとして、うまく履けないことがよくあります。無理やりに両足を入れようとするので詰まってしまい、結局は親が両足をそれぞれのズボンの足に通してやります。

この場合、これまでは自分がやっていたことは「足は片方ずつそれぞれズボンの足に通すんだよ」と、実際にズボンを履かせてみせて、正しいズボンの履き方を教えることでした。

一方で、保護者会の説明を聞いて思ったのは、たとえズボンをうまく履けなかったとしても、自分から履こうとした気持ちや実際に履こうと行動したプロセスについても、これからは親が認め褒めてあげようと思いました。

あらためて考えると、ズボンや上着を自分から着ようと思い、実際にやってみてうまくいく時も、失敗して着れなかった時も、単に結果が成功/失敗するの違いだけで、着ようとする意欲とやってみるという行動までのプロセスは、娘にとっては同じです。

それを、うまく着られた時だけ結果を褒め、失敗した時は認めてあげないのは、娘からすると、親の行動として一貫性がないとも思うようになりました。

これに対してプロセスを褒めてあげることで、その結果がうまくいこうがいくまいが、常にやろうとした意欲や取り組んだ行動に対して、娘は自分が認めてもらえたことになります。

■見通しを伝え、我慢を褒める

娘のやりたい気持ちを尊重したい一方、その全てを優先させることは親としては難しいのが現状です。

例えば、娘の日常で、そろそろお風呂に入らないと夜の寝る時間が遅くなりそうというケースがあります。娘にとっては、お風呂ではなくもっとおもちゃで遊んでいたいと主張します。

この時の対処としてこれまでは、半ば無理矢理にでもお風呂に入れさせようとしていました。

保護者会で学んだのは、こういう場合には「見通し」を説明し伝えることで、無理やり感を減らすことでした。

お風呂の場合で当てはめると、娘に「1回お風呂に入って遊びはやめるけど、お風呂に入った後にもう一度遊ぼう」などと、お風呂の後のことを見通しを言葉にして説明することです。

娘を見ていて感じるのは、1歳とはいえ、親が言うことは彼女なりに理解している点です。だからこそ、彼女が楽しんでいるおもちゃ遊びを親が無理やり中断するのではなく、これから起こる順番を見通しとして言葉で言ってあげる。

もちろん、それでもお風呂を嫌がることもあります。それでも、この先に起こることを見通しとして伝えると、彼女なりにこの後にやる順番が頭に入り、嫌がり方も小さくなったように感じます。

もう1つ、大切なこととして、お風呂前の遊びを中断してお風呂に入ったという、自分がやりたいことに「我慢できたこと」を褒めることも、保護者会での学びでした。

先ほどのプロセスを褒めるの1つとも言えます。

娘が自分のやりたいことや、それをやろうとしたプロセスばかり褒めるのも、それはそれでわがままになってしまうのではと思っていたこともありました。我慢ができたことを褒めることで、自制心もつき、うまくバランスが取れるようになればと思っています。


2015/05/23

メッセージのあるコンテンツを提供しよう



「素人のように考え、玄人として実行する―問題解決のメタ技術」という本に書かれていた、「メッセージのある研究をしろ」が考えさせられる指摘でした。

私は学生によく、研究についてこう言い聞かせている。

「『これができた』と言うと、それを聞いた人が『そうか、それを使えばあれもできるようになるな』『なんだ、そんなことだったら自分にもできる』『それがうまくいくのなら、自分はこうしよう』などと驚いたり、触発されたりと心を動かされるような研究をしろ!それがメッセージのある研究なのだ」と。

反対に、「何だか知らないが、難しいことができてしまった」というのは、立派かもしれないが、あまり人の参考にならない、メッセージがないからだ。

今の仕事での役割(ポジション)は、マーケティングリサーチマネージャーです。

マーケティングの領域としては、特にネット広告に深く関わっています。具体的には、広告効果測定のための調査手法開発であったり、開発できた方法を用いての広告効果測定調査の企画から分析までをやっています。

上記で引用した「メッセージのある研究をしろ」は、自分の仕事領域にもまさに当てはまります。

調査レポートを書くにあたって意識しているのは、読み手にとって1つでも Take away がそこにあること。読む立場の人に、アクションにつながる示唆を与えられることです。

示唆というのは触媒、あるいはスイッチのようなもので、受け手にとってきっかけになるものです。「そうか、これを使えばあれもできるようになるのでは」と次に進むヒントになり得るもの。

このようなスタンスでレポートを仕上げたいと思っているので、レポートを見て「もう少し詳しく知りたい」「自分もレポート内の手法を応用してこんなことをしたい」というフィードバックをもらえるのも、調査レポートを書く立場として冥利に尽きます。

「メッセージのある研究をしろ」をもっと一般化すれば、「メッセージのあるコンテンツを提供しろ」です。

仕事であれば日々のレポートなど小さなものや、内容によっては連絡/報告に使うメールも含まれます。

コンテンツの受け手にとって、1つでも触発されるようなきっかけを与えられているか。あらためて考えさせられました。




2015/05/17

花粉症緩和米に見る遺伝子組み換え作物への期待と実態

「もうダマされないための経済学講義」という本で紹介されていた、遺伝子組み換え食品の開発の話が興味深かったので、取り上げます。

遺伝子組換え作物自体も、これからは多様化してきます。

(中略)

ゴールデンライスという、ビタミンAの前駆体がたくさん含まれているお米も研究されています。開発途上国では、ビタミンA欠乏による失明などが起きていますので、その解決につながると期待されています。

日本で開発中の花粉症緩和米などもインパクトがあるかもしれません。これは、コメに花粉症の原因となる物質を作らせて、それを毎日食べることで体を少しずつその物質に慣れさせ、花粉が飛んで来ても発症しないようにするというもので、非常に大胆で独創的な研究です。



私自身の遺伝子組み換え食品の理解が、作物に除草剤耐性を持たせたり、干ばつに強い品種にするなど、作物をより効率よくつくるためにあると認識していました。

一方で、上記の引用で紹介した遺伝子組み換え作物は、食品自体の栄養価を高めたり、プラスアルファの付加価値を持たせることを目的としています。

花粉症緩和米については、米の中に花粉原因物質を入れますが、この方法を、病気に対するワクチンに応用できれば、さらに価値を生むのではと思います。

お米や、小麦などを食べることを通じて、例えばコレラの感染症を防ぐワクチンを投与することが可能になるのではないでしょうか。

食事を通じて投与できるだけではなく、ワクチンの保存と運搬もお米を通してできるので、もしかするとここにもメリットがあるのかもしれません(常温で運べ長期保存が可能になるなど)。

遺伝子組み換え食品というと、日本では消費者の中で抵抗の強いものです。例えば、スーパーなどで売られている豆腐や納豆のパッケージには「大豆(遺伝子組換えでない)」と明記されています。

多くの消費者は、自分は遺伝子組み換えを原料とした食品は食べていないと思っているのではないでしょうか。

しかし、実態は異なります。最後に、同じく「もうダマされないための経済学講義」からの引用です。
食用油や、清涼飲料水に使われている異性化液糖などは、遺伝子組換え作物を原料として作られていても、表示義務がありません。分析しても遺伝子組換え原料を使っているかどうか判別がつかないからです。

食品企業は、判別がつき表示義務がある豆腐や納豆などには、遺伝子組換え作物を使いませんが、表示義務のない食品の原料には使っています。

したがって、ほとんどの人が遺伝子組換え作物から作られた食品を食べているのが実態です。



2015/05/08

ビジネスでの統計的な結果の解釈とリスクテイク



仕事と統計の話です。

今の会社の自分の役割の1つに、データ結果の見方や解釈をどう考えればよいかを相談されることがあります。

例えば、あるマーケティング施策をして、その効果や達成目標を把握するためのリサーチ結果をどう評価するか。聞かれることの多い質問として、リサーチレポートで比較対照に対しての有意差検定の扱いです。

有意差の統計的な意味などの、そもそもの仮説検定の考え方の説明から入るケースもあれば、有意差検定の結果をどう解釈するかなど、いくつかパターンがあります。

後者の有意差検定結果の解釈について、質問として多いのは「有意差は出ていないが、数字上はポイント差が出ている。これをどう読めばよいか」というもの。具体的には、施策について効果が +15% 増加しているが、この +15% には有意差はなかった、というケースです。

どう解釈すればよいかの質問の裏には、この +15% について「効果があった」と解釈したい、増加したとの説明根拠に使いたい、という思惑があります。しかし、有意差はついていないので、本当にそう結論づけていいか、という質問意図です。

このようなケースで、自分が答えているのは次のような内容です。
  • 統計的には、この +15% は有意とは言えない結果。本来は増加しないものが、サンプリングにおけるたまたまの偶然で増加した可能性が否定できない。つまり、評価として「効果があったとは言えない」との解釈になる
  • もちろん、サンプルサイズが十分でないために、+15% には有意差がでなかった可能性はある。ただし、サンプルサイズが増やすことで、結果は有意にプラスになることもあれば、依然として有意差が出ない、あるいは、有意にマイナスになる可能性もある

例えば +15% の有意差検定が、有意水準 10% であったとします。

もし仮に有意差があったとすれば、この結果が偶然起こった確率は 10% 未満です。10% 未満なので偶然とは考えにくいと捉え、統計的に有意な差があったと見なします。

一方で +15% の増加に統計的な有意差がなかった場合。たとえば p値が p = 0.25 だったとします。たまたま起こる可能性が 25% で、有意水準である 10% よりも大きく、偶然の可能性が排除できないため「有意ではない」と判断されます。

ビジネスにおいて、この有意ではない結果をどう意思決定に使うか。統計上の有意差がない結果をそのまま使えば、この施策には No という判断になります。

一方、偶然起こる可能性が、p 値である 25% だということは、逆に言えば本当に効果がある可能性は 75% です。統計的には、仮説検定から有意差はないとの結論づけますが、ビジネスの意思決定としては、偶然ではない 75% のほうの可能性に賭ける判断は、リスクを吟味した上ではあり得ます。 (2016年7月追記:p 値について誤った記述内容のため削除しました)

書籍「統計学が最強の学問である[実践編]」に、ビジネスにおけるリスクテイクの話が、データと仮説検定をどう活用するかという視点で書かれていました。

医学やビジネスでの仮説検定の使い方

現代の医学の世界では基本的に両側5%の有意水準で有意とされるようなデータが存在しない仮説を大っぴらに主張することは許されないが、だからと言って有意でなかった治療行為を行なうことが絶対的に許されないか、というとそうでもない。

有効性が確立された治療法がない状況で、メカニズム上効くという可能性が示唆され、そのことについて医師と患者双方に合意が得られた場合には、「とりあえず試してみる」「そして無事治ったらそれで良しとする」という意思決定もしばしばなされている。特に、命に別状がないレアな病気、というのはデータが集まりにくく研究も進まないため、こうした状況になりやすい。

おそらくビジネスマンにとってもこれは同様である。学者なら多少ぼんやり側にいても許されるのかもしれないが、「5%で有意じゃないから」と慎重意思決定しさえすればいいかというと必ずしもそうとは限らない。自分がただの誤差に騙されているだけかも、というリスクを承知で、ビジネスチャンスをつかみに行かなければならないことはしばしばある。

ただ、何でもかんでもあわてて直感で意思決定をする、というのと、データと仮説検定をもとに「あえてリスクをとる」というのでは大きな違いがある。

後者の考え方があれば、①ほとんどリスクを取らなくて済む場合と、②リスクを取らないで済むよう追加でデータを集めるべき場合と、③どうしても取らなければいけないリスクについて吟味すべき場合を区別できるようになるだろう。




2015/05/03

子どもの「芽」を摘まないために親ができること

「危うし!小学校英語」という本の最後のあとがきで、著者のあるエピソードが書かれていました。ノーベル賞を受賞した方との、子育てに関する話のやりとりです。

私自身、1才8ヶ月になる子どもがいるので(2015年5月現在)、考えさせられる指摘でした。

子どもの「芽」を摘まないで

ノーベル賞受賞者の子育てアドバイス

ノーベル賞受賞者の会合の司会をした時のことです。ノーベル物理学者章を受賞した物理学者と雑談する機会がありました。たまたま自分に初めての子どもが生まれたばかりだったので、「子どもをあなたのような科学者に育てるには、どうしたらいいのでしょうか」と問いかけました。

すると、「何もしてはいけません」という、意外な答えが返ってきました。

「すべての子どもは、生まれながらにして科学者です。周囲の大人が、寄ってたかって子どもをイジって、その子にしかない芽を摘んでしまってダメになるのです」。その言葉はいまだに心に残っています。

もし、さきほどのノーベル章学者に、「子どもに英語を教えることをどう思うか」と聞いたら、なんと答えるでしょうか。「よけいなことをするな」と言うような気がします。

幼い子が英語塾に通ったりするのは、もったいないことです。そんな時間があれば、友だちと泥んこ遊びに夢中になったり、空や雲を見上げ、道ばたの草や花に見とれ、小さな虫を見つめ、犬と遊ぶ。そんな些細な、しかし、かけがえのないひとときがどれだけ貴重なことかと思います。

「子どもの『芽』を摘まないで」からの示唆は、子どもが本来持っている好奇心の邪魔を大人がしないことの大切さです。

子どもが持つ自由な好奇心を、ノーベル賞受賞者は「子どもは生まれながらにして科学者」という表現をしています。親や周囲の大人がその好奇心に気づかず、あるいは、大人の都合のよいようにもっていくことで、「芽を摘んでしまっている」。

だから、アドバイスは「何もしてはいけない」。子どもが自由に、自分の好奇心に従って感じ行動し、遊ぶことを推奨しています。



今の自分の子は1才です。子どもの様子を見ていると、大人の自分とは全く違った好奇心を持っていることに気づきます。

例えば、気に入ったことや遊びは、自分の気が済むまで繰り返しています。

同じ階段を何度も登り降りをしたり、少し前の4月前半には道ばたに落ちている桜の花びらを拾っては捨てを繰り返していました。積木を縦に積み上げては倒れる遊びを、ずっとやっていたりします。

ひたすら繰り返す様子を見ていると、自分からすると「そろそろ他の遊びをやったら」と思えてきてしまいます。ついつい「(他の)これで遊ぼうか」と勧めてしまいそうになります。

しかし、これがまさに「子どもの芽を摘んでしまう」ことに他なりません。

同じ動作の遊びを何度も繰り返しているのは、子どもにとっては好奇心が続いている状況です。そこには、親や大人にはうかがい知れない、子どもならではの世界があるのでしょう。

本当に子どもを思うのであれば、親としてできることは何もしないこと。

親がするべきことは、子どもがやることに対して、もしそれが危険であったり、他の子に迷惑がかかるような最低限の範囲でコントロールしてあげることだと思っています。それ以外は子どもが持つ好奇心を最大限に尊重してあげる。

やってはいけないこととしては、親の自分の都合で子どもの好奇心を邪魔すること。

例えば、子どもが家への帰り道でアリの行列などに興味を示し、しばらく動かずに眺めていても、早く家に帰りたい親の都合を押し付けないこと。公園で、服や靴が汚れるからといって、泥んこ遊びや砂場遊びを止めないこと。(後で泥だらけの服を手洗いするのは大変ですが)

「すべての子どもは、生まれながらにして科学者です。周囲の大人が、寄ってたかって子どもをイジって、その子にしかない芽を摘んでしまってダメになるのです」という言葉は、考えさせられるものでした。




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