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母方の祖父の十三回忌の法事がありました (2017年9月) 。
祖父は、私が幼少の頃からかわいがってくれ、もう一人の父親のような存在でした。
祖父の最期を看取ったこと
祖父は癌で、入院先の病院で亡くなりました。病院は当時住んでいた場所から近く、よく見舞いに行っていました。亡くなった日も病室に訪れていました。
息を引き取る場に立ち会い祖父の最期を看取ったことは、自分の死生観に強く影響を与えました。人はいずれ死ぬということを、肌で感じることができたからです。
前日は元気だった祖父
祖父が亡くなった日 (2005年9月27日) 、病室へ行くとすでに祖父には酸素給与装置が付けられていました。部屋には祖母と伯父がいました。二人から、祖父は少し前から昏睡状態に入ったと聞きました。担当医からは24時間はもたないだろうと伝えられました。
祖父の表情は柔らかく、眠っているようでした。
前日にも見舞いに来ており、前日は祖父の意識はしっかりしていました。亡くなった日の昼までは前日と変わらない状態だったとのことでした。
昏睡状態だったので、祖父に話しかけてもほとんど反応はありませんでした。唯一、一回だけ祖父を呼びかけると微かな返事がありました。これが祖父との最期の会話でした。
私が病室に来てからは、時おりわずかに声を出し起きたような様子を見せ、またすぐに眠ったように意識を失うという状況が続きました。
祖父の最期
それはちょうど、祖父のお盆を返しに行こうとした時でした。少し前から、呼吸の間隔が短くなり、しゃっくりのような呼吸をしていました。
祖父が何か声を出しました。声の出し方がそれまでとは違いました。祖父の目は少し開いていました。次の瞬間、呼吸が止まったように見えました。祖父の様子が、何か変わったように感じました。
少しの沈黙の後に、一度、しゃっくりのようなものをしました。その後、祖父は二度と動くことはありませんでした。
祖父は、幸せそうな、やすらかな表情でした。
時は命なり
祖父の最期を看取ったことは、人は誰しもがいずれは死ぬということを、あらためて思わされる体験でした。命には限りがあることを実感しました。
自分もいつかは死ぬことを現実に感じて思ったのは、死ぬまでにどう過ごすか、何をやるかでした。
時間の使い方を考えることは、人生のあり方を問うことです。これからの時間をどのように使うかとは、自分に残された命をどう使うかです。時は命なりと言えます。
出した結論は、「今」 を生きることでした。人生の捉え方を、過去の 「今」 が全て積み重なったものが今の自分を作っている、過去と未来の全ての 「今」 の総体と考えるようになりました。
まだ死ねない理由に時間を使う
「もう自分は死んでもよいか」 と自分自身に問えば、「まだ死にたくない」 と答えられます。
今はまだ死ねないのはなぜかという根拠があるからです。大切なのは、死ねない理由があるだけではなく、日々どれだけの時間をそれに使えているかです。
私の場合、例えば、子どもの存在があります。もし、自分ががいなくなれば、子どもは父親がいなくなります。父親がいるかいないかでは、子どものその後の人生に大きく影響します。
子どもの存在が、まだ死ねない理由の一つです。仕事もまだ挑戦したいこと、プライベートでも理由はあります。
日々、実際に優先して、それらの時間を大切にしているかどうかです。
今日9月27日は祖父の命日です。