2017/02/25

大切にしたい道徳観を教えてくれる教育勅語。作られた経緯とともに


Free Image on Pixabay


1890年 (明治23年) 10月30日、明治天皇が直接お与えになったのが教育勅語でした。正式名は教育ニ関スル勅語です。

教育勅語の文章は、天皇が自ら国民に語りかける形式をとります。

12の徳目 (道徳) で構成されています。これを守るのが国民の伝統とし、歴代天皇の遺した教えと位置づけました。国民とともに天皇御自身もこれを守るために努力したいと、天皇の誓いとして締めくくられています。

以下、12の徳目です。原文と、() 内は現代訳です。

  • 父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
  • 兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
  • 夫婦相和シ (夫婦は心を合わせて仲睦まじくしましょう)
  • 朋友相信シ (友だちはお互いに信頼し合いましょう)
  • 恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう)
  • 博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
  • 學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう)
  • 以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう)
  • 德器ヲ成就シ (人格の向上につとめましょう)
  • 進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
  • 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
  • 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ (国に危機があったなら正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう)

12の徳目とも、至極真っ当なことを言っています。作られたのは明治時代ですが、現代でも通用します。時代によらず普遍的な道徳です。

教育勅語の真実 という本には、教育勅語がつくられたプロセスに焦点が当てられています。



そもそも、教育勅語はなぜつくられたのでしょうか。発端は明治天皇が教育の現場を憂われたことでした。

当時、日本は富国強兵と殖産興業の下で、西洋文明に追いつくために国民が一丸となっていました。しかし、教育の現場では 「とにかく西洋文明を習え」 とばかりに行き過ぎのきらいがあったようです。というのは、日本の伝統的な教養が教育の場から排除される傾向にあったからです。

実際の教育現場を見られた明治天皇はその状況を問題視され、「西洋の文物を学ぶことは必要だとしても、まず日本人が立脚すべき道徳の根本を教えなければ本末転倒になるのではないか」 と指摘されたそうです。

これを受け、元田永孚と井上毅が中心となり教育勅語がつくられます。

井上が起草した教育勅語案にはいくつかの前提がありました。教育勅語の位置づけがよくわかる内容です。

  • 教育勅語は他の政治上の勅語とは同様としない。政治の思惑に左右されてしまうような勅語としないため
  • 勅語には天や神などの言葉を入れない。天皇の言葉に 「神を尊べ」 などと入れば、例えば仏教の考え方には相容れず、宗教の争いを引き起こしかねない。勅語が宗教上の争いを助長したり巻き込まれるようなことはあってはならない。特定の宗教の1つの思想や考え方に限定されないものにする。東洋/西洋の枠を超えた教育の指針とする
  • 「これをしたらいけない」 などの表現は入れない。「こうしましょう」 という言い方にする

教育勅語は軍国主義と結びつけて捉えられることがあります。しかし、つくられた経緯を見るとそれは正しくなく、明治天皇と元田や井上の愛国心、教育への強い信念が見て取れます。内容は人としてあるべき姿が簡潔に書かれています。

教育勅語はその後、1948年 (昭和23年) 6月19日に国会にて失効が決まりました。衆議院で 「教育勅語等排除に関する決議」 、参議院で 「教育勅語等の失効確認に関する決議」 がそれぞれ決議されたからです。

当時の GHQ 占領の影響が大きかったとはいえ、国民の代表である政治家の決定で教育勅語がなくなってしまったのは残念です。

教育勅語は、自分の家庭教育では親として子に伝えていきたい道徳観です。




follow us in feedly このエントリーをはてなブックマークに追加

Facebook Page

バックナンバー

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...