2015/01/02

娘の緊急入院で感じた「利用者」と「医療側」の乖離

昨年2014年のクリスマス前に、1才3ヶ月の娘が入院をしました。幸い、1泊の入院で済んだものの、救急車を呼んでの緊急入院でした。




入院先は近くの大学付属病院で、小児病棟です。入院した当日の夜は、妻がそのまま娘と一緒に泊まりました。私自身は、その日の面会時間が終わるまでと翌日の午後までの退院まで付き添いました。

短期間ではあったものの、娘の入院に付き添ってあらためて感じたことは、病院はなんとも居心地の良くない場所だということでした。

もちろん、病気や怪我の方がいる場所なので、外との雰囲気は違っていて当然です。ただ、それを差し置いても病院という空間には、患者やその家族などの利用者側にとって、最適な設計になっているかというと、自分にはそうではないように感じます。

一言で表現してしまうと、医者 / 看護師などの提供側から見てつくられています。病室やベッド、廊下、トイレ、などの設備、案内カウンター、会計所、などなど、あらゆるものにそう感じてしまいました。

そこにいる案内の係の方、事務の方、医者 / 看護師の方を一人ひとりを見ると、患者などの利用者側をないがしろにしている様子はありません。しかし、病院という仕組み全体に目を移した時に、否応なしに感じられる、提供者側の論理がそこにはあるのです。

背景には、様々なことが絡み合っているのだと思います。病院という設備の設計思想、業務のされ方、患者に対して人が足りていないために一人ひとりに十分な時間が取れない、病院側にお金が足りていないように見える、などなど。

娘の入院のタイミングで読んでいた本が、『「病院」がトヨタを超える日 医療は日本を救う輸出産業になる!』でした。この本は、ここ最近読んだものの中では特におもしろかった1冊です。

本書の冒頭には次のように書かれています。

どうして、病院は患者さんのニーズに応えられないのでしょうか?
どうして病院は、そこにいるだけで気の滅入るような、辛気くさい空間になってしまったのでしょうか?
ほかの業界では当たり前のことができていない理由は、どこにあるのでしょうか?
答えは簡単です。医療の現場ほど「買う側」のニーズが無視され、「売る側」の論理のみが横行している場所はないからです。
たとえば病院設計ひとつをとっても、患者さんがなにを望み、どこで困っているかなんていっさい考慮されることはなく、すべて医療者(医療従事者)の論理でものごとが決められています。

(中略)

しかし、どれほど不信感が強くても、病気になった患者は病院を利用せざるをえない。そのせいで病院には自浄作用が働かず、ますます慢心していくことになります。
日本の医療が抱える問題は山のようにありますが、その根底に横たわっているのは「売る側=病院」と「買う側=患者」の乖離にほかならないのです。

(中略)

食品の消費期限にしろ、マンションの耐震強度にしろ、さまざまな偽装が起こる背景にはいつも「売る側」と「買う側」の乖離があります。自分が住まないマンションだから、耐震強度を偽装する。自分が食べない菓子だから、利益を優先して安全を疎かにする。売る側のどこにも「消費者として自分」がいないせいで、さまざまな偽装が起こるのです。

この部分を読んであらためて思ったのは、「相手の視点になることの大切さ」でした。

矛盾することですが、人は全てのことを自分という視点から見ているため、完全に相手の視点に立つことはそもそも不可能です。しかし、だからと言って、自分の視点だけではなく相手視点も忘れてはいけないと思います。

(物理的に)相手の視点に立つことができないからこそ、擬似的な相手視点に立ち物事を見たり考えたりできているか。我が家では年末の一騒動でしたが、そこからのあらためての気づきでした。



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