#経営 #組織改革 #人間理解

現在の JR 各社の前身は、国が経営に責任を持っていた日本国有鉄道、通称「国鉄」です。

1980 年代、全国でひとつの巨大組織だった国鉄は分割・民営化され、JR 東海や JR 東などの各社へ移りました。その過程では、経営陣や労働組合、政治家の利害が激しくぶつかっていました。

今回は、国鉄改革の当事者が記した攻防を紐解きます。

社内の反対で改革が進まないとき、相手の本音をどう捉え、誰にどう働きかければいいのか? 国鉄の分割民営化の歴史には、そのための貴重な教訓が詰まっています。

組合権力の肥大化で、経営権と職場規律が空洞化した

参考にするのは、改革を中心で担った葛西敬之 (かさい としゆき) さんの著書『未完の 「国鉄改革」 - 巨大組織の崩壊と再生』です。

葛西さんは当時、国鉄内で職員の労務を担当する立場で労働組合と向き合っていました。まずは、組合との関係が国鉄の職場をどう変えてしまったかを見ていきましょう。

労使関係というのは、働く人を代表する労働組合と、雇用する側の経営陣との関係のことです。労働組合に認められていたのは、賃金や労働時間などの条件を交渉する権利でした。

ところが国鉄では、組合の影響力が人事や現場の仕事の進め方にまで及んでいました。管理者が指示を出しても、組合の抵抗に阻まれて実行できない職場が、本書には何度も出てきます。

たとえば 1960 年代後半に導入された「現場協議制」のもとでは、駅や保線区などの職場ごとに、勤務の割り振りや作業の進め方を組合と協議して決める仕組みになっていました。管理者が作業手順の変更を指示しても、組合が同意しなければ実施できず、協議の場は管理者が組合員に詰め寄られる場にもなっていきました。

経営側が職場の主導権を取り戻そうとしたのが、1970 年前後に各職場で進めた生産性向上運動 (マル生運動) です。職員の意識を変えて規律を立て直す狙いでしたが、組合は組合員の切り崩しだとして激しく反発しました。

1971 年には公共企業体等労働委員会が運動の一部を不当労働行為と認め、総裁が陳謝して運動は中止に追い込まれます。運動を進めた管理者は処分の対象にもなり、以後、経営側は労働組合との衝突を避けて譲歩を繰り返すようになりました。

さらに 1975 年には「スト権スト」が起きます。国鉄職員は法律でストライキを禁じられていましたが、組合がその権利の回復を求めて 8 日間のストライキを決行し、輸送の大混乱に利用者の不満が一気に高まりました。

1980 年代に入っても規律の乱れは続き、当時の運輸省の白書には、規程にない休暇や手当、いわゆる「ヤミ休暇」「ヤミ手当」の是正が記されています。点呼の不備や勤務中の飲酒まで問題になっていました。

葛西さんが厳しく指摘するのは、組合の権力が現場の指揮命令にまで及び、経営側が規律を守らせる責任を果たせなくなっていたことです。

もちろん、組合には組合員の雇用や労働条件を守る役割がありました。ただ、本書が描く攻防で目を引くのは、各勢力が国鉄の利用者のことよりも、組織の中での自分たちの立場を守ることを優先する姿です。

読みながら、私は「利用者や国民のことは、どこで話し合われているんだろう?」と思う場面が何度もありました。

再建策が行き詰まり、分割民営化に踏み込んだ

膨らみ続ける借金を前に、国鉄の中では改革派が、国鉄の外では政府と自民党が、それぞれ分割民営化という答えに向かっていきます。

合理化と値上げを繰り返しても膨らむ巨額債務

国鉄の経営が悪化した背景には、自動車や航空との競争、貨物輸送の落ち込み、巨額の設備投資がありました。東海道新幹線が開業した 1964 年度に単年度の赤字に転落し、その後も赤字が続きます。

設備投資も借金で賄ったため、1983 年度末には長期債務が約 20 兆円に膨らみました。内訳は約 13 兆円が設備投資、約 7 兆円が赤字の穴埋めによるもので、利払いがさらに経営を圧迫する悪循環に陥っていました。

政府と国鉄は、人員の削減や運賃の値上げ、投資の抑制、利用の少ない地方路線の見直しなどを進めます。しかし、再建計画の目標には一度も届かず、計画が失敗するたびに次の計画をつくる状態が続きました。

葛西さんら国鉄内の改革派は、同じような再建策を繰り返していても国鉄は持たない、という強い危機感を抱きます。目指したのは、経営者が責任を負い、現場の規律も立て直せる組織です。そのために、全国一体の国鉄を地域ごとに分けて地域間のもたれ合いを断ち、民間の会社にする「分割民営化」しかないと考えるようになりました。

国鉄の外では、政府と自民党が分割民営化の制度づくりを進める

同じころ、政府の行政改革を検討する第二次臨時行政調査会 (第二臨調) は、1982 年に国鉄の分割民営化を答申しました。

自民党内では、三塚 (みつづか) 博さんが率いる国鉄再建小委員会 (三塚委員会) が現場の実態を調べます。国鉄内の職場規律や労使関係の問題が明らかになるにつれ、議論は国鉄の組織のあり方を変える方向へ進みました。

1983 年に発足した国鉄再建監理委員会では、国鉄の旅客事業を地域ごとに分け、貨物は全国 1 社で運営する案が具体化されます。会社を分けるなら、どの会社がどの事業を担い、どれだけの借金を引き受けるのかも決めなければなりません。

改革は、新会社が背負いきれない債務をどこに移すかまで含めて、事業全体を組み替える作業でした。

ところが、改革を担うはずの国鉄内部では、経営陣が分割に反対し続け、社内の改革派への圧力を強めていきました。

改革派は追い詰められたが、社外との連携で力関係を反転させた

分割民営化の案をつくるのは監理委員会でも、職員に仕事を指示し、配置を決める権限は国鉄の経営陣が握っています。その経営陣は、監理委員会とは全く違う方向を向いていました。

分割阻止で一致した利害と、改革派への排除人事

1985 年、仁杉巌 (にすぎ いわお) 総裁のもとで国鉄が示した案は、全国一体の組織を保ったまま民営化するというものでした。総裁は民間企業でいえば社長にあたる国鉄のトップで、その総裁が率いる経営陣が、監理委員会の分割案に正面から異を唱えたことになります。

国鉄の分割に反対する労組も、組織が分かれることや雇用への影響を心配していました。経営陣と反対派の労組は、守りたいものは違っていても「分割阻止」という一点で一致し、社内の改革派は追い詰められていきます。

改革派の中心人物で、のちに JR 東日本の社長となる松田昌士さんは北海道総局へ異動になり、本社の中枢から外されました。改革を進める人たちを重要な部署から遠ざける人事が続き、葛西さんらは四面楚歌の状態に追い込まれていきます。

社内で改革を続けるには、誰が意思決定と人事の権限を握るのかという問題を避けて通れなくなっていました。

経営陣の交代で、孤立した改革派が実行を担う側へ

社内で孤立する一方で、改革派は以前から社外への働きかけを続けていました。葛西さんは第二臨調の段階で、参謀役だった瀬島龍三さんに分割の必要性を説明するメモを用意し、改革派は三塚委員会や監理委員会にも国鉄内部の実情を伝えていました。

社外の意思決定者と問題意識を共有していたことが、政治の判断を改革の側へ向ける後押しになります。1985 年 6 月、中曽根康弘政権は仁杉総裁を事実上更迭して杉浦喬也さんを総裁に据え、分割に反対していた経営幹部も一新しました。

国鉄改革の大きなターニングポイントになったのは、改革派を本社から遠ざけていた人事や経営の権限が、今度は改革を担う人を配置し、仕事を進めるために使われるようになったことでした。

ただ、人員の合理化を進めれば国鉄を離れる職員が出るため、新しい経営陣と改革派は、職員が次に働く場所を確保する責任も負うことになりました。

数万人の雇用と労組との対立に向き合い、JR 発足を実現

国鉄が職員の再就職を外部に頼んでも、採用するかどうかを決めるのは受け入れる側の組織です。改革派の次の課題は、社外の組織に雇用を引き受けてもらう交渉でした。

警察の採用を突破口に、及び腰の受け入れ先を説得する

国鉄では、輸送量の減少や合理化によって、分割民営化の前から余剰人員が生まれていました。政府の再就職計画では、国鉄などの職員約 6 万 1,000 人について、外部に雇用の場を確保する目標が立てられました。

とはいえ当初は、公的機関も民間企業も、国鉄から大量の人員を受け入れることには及び腰でした。国鉄の再建に協力するのは賛成でも、「では、あなたの組織で職員を採用してください」と言われると、話が変わってくるからです。

突破口になったのが、国鉄の鉄道公安職員の警察への移行です。国鉄には駅や列車の治安を守る鉄道公安職員がいて、鉄道公安制度の廃止に合わせて、その受け皿として警察官 2,882 人の増員が認められました。

鉄道公安職員の移行には、当時、内閣官房長官だった後藤田正晴さんらが関わっています。治安の仕事とそれを担ってきた人を警察が引き受けたことが、他の受け入れ先との交渉を進めるきっかけになりました。

政府も首相を本部長とする雇用対策本部を設け、各省庁、地方公共団体、関連企業、一般企業に採用を求めました。

労組ごとの事情を見極め、対立を抱えながら JR 発足へ

雇用の受け入れ先を探す一方で、改革を進める側は、組合ごとの事情を見極めて働きかけました。1986 年 1 月、国鉄は、機関士や運転士が中心の国鉄動力車労働組合 (動労) や、鉄道労働組合 (鉄労) などと「労使共同宣言」を結びます。

かつて強硬だった動労が協調路線に転じたことで、分割民営化に反対する勢力は国鉄で最大の組合だった国鉄労働組合 (国労) に絞られました。その国労も、改革への対応をめぐって分裂していきます。

1986 年 11 月に国鉄改革関連 8 法が成立すると、翌年 4 月までの短い期間で、職員の採用、資産と債務の引き継ぎ、会社間の業務分担を進めます。そして監理委員会が 1985 年に示したとおり、1987 年 4 月 1 日に旅客 6 社と貨物 1 社を中心とする JR が発足しました。

その後、本州の JR 3 社は、JR 東日本が 1993 年、JR 西日本が 1996 年、JR 東海が 1997 年に上場を果たしました。旧国鉄の債務処理や再就職の支援は、国鉄清算事業団に引き継がれています。

予定どおりの発足や、その後の上場だけを見ると順調に進んだようですが、そこに至るまでには、組織や立場に固執する人、雇用を引き受けることをためらう人との交渉が続いていました。

加えて、葛西さんは JR の発足後も改革は続いていると考えていました。本書のタイトルにある「未完」が指すのは、葛西さんが JR 東海の経営者として向き合った制度の積み残しです。

とくに葛西さんが厳しく指摘したのが新幹線保有機構です。新幹線の設備を一括で保有して東海道新幹線の利益を他の新幹線へ回す仕組みと、1991 年の買い取りで JR 東海が背負った負担を、葛西さんは改革の歪みとして批判しました。

相手が何を守り、どんな条件なら応じられるのかを探りながら進んだ国鉄の攻防からは、私たちの組織改革への教訓も引き出せます。

組織改革を進めるには、人の本音を理解し、利害に決着をつける

部門の再編や業務分担の変更でも、働く人の権限や評価、仕事の負担が変わります。国鉄の攻防から得られる教訓を、相手の本音の捉え方と、利害の決着のつけ方に分けて考えてみます。

地位・雇用・所属・存在意義が脅かされるときの本性

国鉄の職員にとって分割民営化は、自分や仲間の人生に直接かかわる出来事でした。ただ、経営陣、労組幹部、個々の職員では、負う責任も変化の影響も違います。

同じ「分割反対」でも、経営陣は全国一体の組織を、労組は組合の影響力と組合員の雇用を守ろうとしていました。動労が協調路線に転じたのも、守りたいものが国労とは違っていたからだと読めます。

反対している人をひとまとめにせず、それぞれが何を守ろうとしているのかを見分けると、交渉の糸口が見えてきます。自分の仕事で反対意見を聞いたときも、相手の立場から次のように確かめておきたいところです。

  • 変化や制度変更によって、仕事、権限、評価、生活の何が変わるのか?
  • 説明を受けても、なお不安や不利益として残っているのは何か?
  • 相手が協力に応じた場合、その人は部下やまわりの人たちに何を説明し、どんな責任を負うことになるのか?

本人は賛成したくても、部下や仲間に説明できない条件なら、簡単には引き受けられません。相手が何を守り、誰への説明責任を負っているのかがわかれば、仕事や評価、負担のどこまで話を詰めればいいかもはっきりします。

誰に何を引き受けてもらうかまで詰め、決める権限を握る

国鉄改革では、経営陣の交代で意思決定と人事の権限が改革派の側に移り、再就職先への働きかけによって雇用の受け入れが進みました。改革派は相手の事情を踏まえつつ、権限、役割、負担を実際に変えるところまで踏み込みました。

たとえば営業とマーケティングの業務分担を変えるなら、誰が顧客対応を引き継ぎ、移行中は誰が支援し、成果をどう評価するかまで決め、引き継ぐ部署の負担も確かめるといいでしょう。評価や人員配置にかかわる点は担当者同士では決めきれないので、権限を持つ人が判断し、理由を説明して責任を負います。

誰が何を担うかが曖昧なままでは、改革の方針を聞いても、現場は何を変えればいいのかわかりません。一方で、一度決めた負担の配分は長く残ります。

国鉄改革でも、JR 発足時に決めた新幹線の負担の配分が、その後も長く JR 東海の経営を縛りました。最初の段階でどこまで詰めておくかが、何年も先の経営を左右します。

組織の規模にかかわらず、改革を実行するには、反対する人それぞれが何を守ろうとしているのかを見極め、誰が何を引き受けるかまで決めきることが求められます。国鉄の改革派が雇用や労組との交渉に踏み込めたのも、社外の意思決定者と問題意識を共有し、意思決定と人事の権限が改革を担う側に移っていたからでした。

まとめ

  • 国鉄では組合の影響が人事や現場にまで及び、生産性を高める運動などの挫折後は経営側が譲歩を繰り返して、経営権と職場規律が空洞化した
  • 運賃収入で借金を賄えなくなり、再建計画も失敗が続く中、国鉄内の改革派と国鉄外の政府・自民党が分割民営化に向かった
  • 分割阻止で一致した経営陣と反対派労組に改革派は追い詰められたが、社外との連携を背景に経営陣が交代し、改革派が実行を担う立場に就いた
  • 警察の採用を突破口に再就職先を広げ、労組ごとの事情を見極めながら、予定どおり JR を発足させた。ただし新幹線の負担配分など制度の積み残しは、発足後も JR 東海の経営を縛った
  • 組織改革では、反対する人それぞれが守ろうとするものを見極め、誰が何を引き受けるかまで決めきる。あわせて、意思決定と人事の権限が改革の担い手の側にあることが、実行を支える