2000年代の前半頃より社会問題として続くのが、振り込め詐欺です。
被害規模が増え続ける振り込め詐欺
当初はオレオレ詐欺と呼ばれ、その後 2004年に振り込め詐欺と名称が変わりました。
認知の徹底、警察や金融機関での対策がなされるものの、被害は減るどころかむしろ依然として増え続けている状況です。
現行の日米合意に従って、在日米軍再編を進めてまいります。
3月末には、西普天間住宅地区の返還が実現いたします。学校や住宅に囲まれ、市街地の真ん中にある普天間飛行場の返還を、必ずや実現する。そのために、引き続き沖縄の方々の理解を得る努力を続けながら、名護市辺野古沖への移設を進めてまいります。
今後も、日米両国の強固な信頼関係の下に、裏付けのない 「言葉」 ではなく実際の 「行動」 で、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。
三國電産北米事業部長の唐木栄太郎は取締役の椅子も目前。妻と名門私立中を目指す息子と家族三人で、都内の自宅で絶好調の年末を迎えていた。
そんなある日、秋田で独居する老母が雪かき中に骨折したと電話が入る。その時は、まさかそれが、奈落への号砲とは知る由もなかった…… 。
平穏な日々を崩壊させる "今そこにある危機" を、真正面から突きつける問題作、遂に文庫化!
まず最初の取っ掛かりとして、15分だったらとりあえず一話ぐらいは観てみようかなという気になりました。YouTube も一つの動画の長さが最大10分なのでその感覚に近いかも。
逆に言うと、45分や1時間とかだったら観ていなかったと思います。実際今までのテレビドラマを観なかったのは、それが原因。
あと、一話の単位が15分だとちょっとしたスキマ時間で観れます。15分だからこそ 「あ、今ちょっと時間あるから次の回を観てみよう」 となる。それこそ友達に薦められた YouTube の動画をさらっと観るみたいな感じで。
これが45分とかだったら、例えば会社の昼休みをほとんど使っちゃうわけでかなりの決断になるし、この違いは大きい。
金融政策は、犬の首輪につけた手綱を操るようなものだといわれることがあります。早く走ろうとする犬の手綱を引っ張って、犬にブレーキをかけるのはやりやすい。金融引締がこれに当たります。
他方、犬をもっと遠くに行かせたいと思って、手綱を緩めても、犬自身が遠くに行こうとしなければ、効果はない。金融緩和はこれに近い感じの政策です。
引用:書籍「日本の景気は賃金が決める」
あるテレビ局のプロデューサーからは耳を疑うような視聴率至上主義の返事が返ってきたのでした。
「水素爆発の映像を流せば視聴率(数字)が取れる。繰り返し流していても数字が取れる。数字が取れているんだし、会社のトップもそれを容認している」
(中略) 緊急時には災害対策基本法下で防災機関としての役割を担うはずのテレビメディアは、そんな状況になっても視聴率至上主義のままで、自分たちの役割を果たさなかったのです。
それどころか、救える命も救えないという事態を巻き起こしたのです。燃料や薬が届かないことで病院機能や搬送体制を維持することができず、多くの命が失われているというのも大事な事実です。しかし、そのことはテレビで大々的に報道されることはありませんでした。メディアの非を自らが認めることになりますから。
引用:書籍「テレビが政治をダメにした」
政治家の役割とは、「複雑な世の中の課題に優先順位を付けること」です。多くの人の利害がからみ、多様で多岐にわたる選択肢がある複雑な課題の中から、この国にとって現在に必要な解決策の優先順位を提示し、進めていくことなのです。
それは白とも黒ともはっきりとしない優先順位になることだって往々にしてあります。多くの人間が関わり、この国を動かしているのですから、そう簡単にはYES、NOではくくれないことばかりなのです。
矛盾や葛藤を抱えながら苦渋の決断さえもする必要がある。それでも、「その優先順位の選択からもたらされる結果については政治責任を負う」ということで政治家の信頼が確保されるのです。
引用:書籍「テレビが政治をダメにした」
本来、ジャーナリズムは、そのステレオタイプを是正するためにあるものです。こういう見方がある、ああいう見方がある。一方でこうした政策もある。とステレオタイプで切り捨てられる部分を拾い上げていく。
すると、多様な情報が議論の俎上に乗ることになり、政治家がどのような背景から優先順位を付けているのかというのが見えてくる。こうした様々な情報に基づいて熟議されることによって、民主主義というのは成立するはずなのです。
引用:書籍「テレビが政治をダメにした」
ビッグデータ予測が完璧で、アルゴリズムが我々の未来を寸分違わずはっきりと見通せるなら、我々の行動にもはや選択の余地など存在しないことにならないか。完璧な予測が可能なら、人間の意志は否定され、自由に人生を生きることもできない。皮肉なことだが、我々に選択の余地がないとなれば、何ら責任を問われることもない。