#マーケティング #リテールテインメント #フィジカルアベイラビリティとメンタルアベイラビリティ
午後 8 時半。本来なら閉店に向かう時間帯に、紀伊國屋書店新宿本店には人が集まってきました。
目的は本を買うことだけではありません。翌朝 6 時まで書店で過ごし、トークイベントやミステリーツアーを楽しむためです。
有料入場チケット 634 枚は、告知からわずか 4 時間で完売しました。
出版市場が縮小し、書店離れが進む中で、なぜ人はお金を払ってまで夜通し書店に集まったのでしょうか。
ここには、EC で買い物ができる時代に実店舗がどんな価値をつくれるのかという、小売業にとって大きなヒントがあります。
今回は紀伊國屋書店の 「KINOFES 2026」 から、「リテールテインメント」 について考えます。
出版不況の書店に、人が夜通し集まった
紀伊國屋書店は、厳しい出版市場の中でも好調な業績を続けています。
2025 年 8 月期の売上は約 1408 億円、営業利益は約 52 億円となり、3 期連続で過去最高の売上・利益を更新しました。海外 10 カ国で 47 店舗を展開し、国内では旭屋書店や啓文堂書店を買収するなど、海外展開と M&A が成長を支えています。
一方、書店という業態そのものを取り巻く環境は厳しいままです。2025 年の紙の出版市場は 9647 億円で、ピークだった 1996 年の約 36% の規模まで縮小しています。
紀伊國屋書店が向き合っているのが、人が書店へ行く理由をどうつくるかという課題です。
その実験のひとつが、2026 年 1 月 31 日から 2 月 1 日にかけて新宿本店で開催された 「KINOFES 2026」 でした。
出典: DRUM UP
KINOFES 2026 は、午後 8 時半から翌朝 6 時まで書店をまるごと使ったオールナイトイベントです。
作家やタレントによるトークイベントに加え、書店を舞台にしたミステリーツアーなどが行われました。
興味深いのは、そこで提供されたものが本だけではなかったことです。本屋で夜を過ごす、文化人と同じ空間を共有する、閉店後の書店を歩く。普段の営業時間では味わえない体験そのものが、来店する理由になっています。
有料入場チケット 634 枚は、告知から 4 時間で完売しました。
藤則幸男社長は、「やり方次第では、書店に人が訪れるきっかけはつくれる」 と手応えを示す一方、「瞬間風速では意味がない」 「小規模でも定期的にやり続けることが大事」 とも語っています。
一度だけ話題になるイベントではなく、紀伊國屋書店に行けば何かおもしろいことがあるという期待を少しずつつくろうとしているのでしょう。
買える店から行きたい店へ
KINOFES をマーケティングの視点から見ると、実店舗の役割の変化が見えてきます。
鍵になるのが、フィジカルアベイラビリティとメンタルアベイラビリティです。
買える状態をつくるフィジカルアベイラビリティ
フィジカルアベイラビリティ (Physical Availability) とは、お客さんが買いたいと思ったときに、実際に商品を買える状態が整っていることです。
近くに店舗がある、欲しい商品が置いてある、在庫がある、商品を見つけやすい。こうした買いやすさが含まれます。
かつて実店舗は、この役割を担う重要な存在でした。しかし EC が普及したことで、本を手に入れるために必ずしも書店へ行く必要はなくなりました。欲しい本が決まっていれば、スマホから注文して自宅で受け取れます。
だからこそ、実店舗には買えること以外の理由が必要になります。
思い出してもらうメンタルアベイラビリティ
もうひとつがメンタルアベイラビリティです。ある状況になったときに、ブランドが頭に浮かびやすい状態を指します。
たとえば、本を買いたいと思ったときに紀伊國屋書店を思い出す。何かおもしろい本に出合いたいと感じたときにも紀伊國屋書店が浮かぶ。こうした想起が増えるほど、選ばれる可能性も高まります。
KINOFES のおもしろさは、本を買うという文脈に加えて、文化に触れたい、おもしろい体験をしたい、知的な刺激がほしいといった別の文脈からも紀伊國屋書店を思い出すきっかけをつくっていることです。
KINOFES はリテールテインメントである
ここでつながるのが、リテールテインメントという考え方です。
リテールテインメントとは、Retail (小売) と Entertainment (娯楽) を組み合わせた言葉です。店舗に楽しさや体験を加え、来店すること自体に価値をつくります。
KINOFES は、そのわかりやすい実例です。
本を買う場所という意味を書き換える
普段、書店は本を買う場所として認識されています。
ところが KINOFES を体験した人にとって、紀伊國屋書店は少し違う存在になります。おもしろいことが起こる、文化に触れられる、わざわざ出かけたくなる。書店そのものに新しい意味が加わるからです。
そして、この記憶はイベントが終わった後にも残ります。
次に本を探したくなったときや、知的な刺激がほしくなったとき、紀伊國屋書店に行ってみようと思い出す可能性が高まります。体験がメンタルアベイラビリティを育てるわけです。
体験が商品との出合いも増やす
さらにおもしろいのは、体験を目的に来店した人が、結果として本にも触れることです。
イベントの合間に本棚を見る。平台に並ぶ本を手に取る。普段なら読まないジャンルの本が目に入る。滞在時間が長くなるほど、こうした偶然の接触も増えていきます。
体験が来店を生み、来店が商品との出合いを生み、その出合いがまた店の記憶につながります。
メンタルアベイラビリティとフィジカルアベイラビリティが互いを高め合うのです。
EC が苦手なものを、実店舗の価値にする
KINOFES には、オンラインでは味わいにくい要素がいくつもあります。
たとえば、深夜の書店を歩く非日常感です。本に囲まれた空間の雰囲気や匂いまで含めて、その場にいるからこそ得られる体験があります。
本との偶発的な出合いもそうです。EC にもレコメンドはありますが、目的もなく棚を眺めているうちに、知らなかった本が突然目に飛び込んでくる体験とは少し違います。
さらに、同じ夜を大勢の人と過ごす共同体験があります。同じ夜に紀伊國屋書店にいたという記憶は、参加者同士の一体感にもなります。
そして場所そのものにも物語があります。2027 年に創業 100 周年を迎えるのが紀伊國屋書店です。その新宿本店で夜通し本に囲まれて過ごすからこそ、KINOFES という体験に意味が生まれます。
何を売るかと同じくらい、なぜ行くのかをつくる
KINOFES から得られる学びは、書店だけのものではありません。
EC が便利になればなるほど、商品を買うためだけに店舗へ行く必要性は小さくなります。
だから実店舗では、何を売るかと同じくらい、なぜわざわざここへ来るのかを考えることが重要になります。
体験を通じて店の意味が変わり、その記憶が次の来店や購買につながる。実店舗は商品を並べる売り場であると同時に、お客さんの記憶をつくる場所にもなれるのです。
まとめ
紀伊國屋書店の KINOFES から見えてくるのは、EC 時代だからこそ実店舗が持てる、新しい価値です。
- EC が普及するほど、実店舗には買えること以外の来店理由が求められる
- KINOFES は本屋で夜を過ごすという体験によって、紀伊國屋書店を行きたい場所へと変えている
- リテールテインメントは体験を通じてメンタルアベイラビリティを高め、来店による商品接触によってフィジカルアベイラビリティにもつながる
- 五感、偶発的な出合い、共同体験、場所の物語は、実店舗だからこそ生み出しやすい価値になる
- EC 時代の実店舗は、商品を売る場所から記憶をつくる場所へと役割を広げられる
