#マーケティング #ブランディング #社会的な存在価値

企業が社会の中でどんな意味を持つのか──

ビジネスでは、自社商品やサービスがもたらす 「社会的な存在価値」 をどう定義するかが問われます。

今回は、東京ガスの事例から、自社の存在意義を 「社会的な存在価値」 にまで高める重要性と方法を考えます。

東京ガスの課題感

東京ガスは 140 年以上の歴史を持つ、首都圏を中心にガス・電気といったエネルギーインフラを提供する企業です。

思い出されにくい存在

東京ガスが直面していた本質的な問題は、「ガス会社」 というイメージに縛られ、人々の生活の中で東京ガスのことが想起されにくい存在になっていたことでした。

ガスや電気といったインフラサービスは、一度契約すれば数年間は企業名やブランドを意識される機会がほとんどありません。引っ越しや機器交換といった限られたタイミングでしか思い出されない、いわば 「透明な存在」 だったわけです。

新ブランドを立ち上げるものの…

こうした背景もあり、2023 年 11 月に、東京ガスは暮らしの課題を総合的に支援するソリューション事業ブランド 「IGNITURE (イグニチャー) 」 を立ち上げました。

出典: 日経クロストレンド

イグニチャーが提供するサービスの範囲は、リフォームや水まわりの修理、ハウスクリーニングなど、生活課題に合わせた多岐にわたります。

しかしイグニチャーを 1 年間運営して明らかになったのは、依然として 「東京ガス = ガス会社」 という既存イメージの壁でした。

ハウスクリーニングのような個別サービスを訴求しても、「東京ガスに頼もう」 という発想には至りにくい。この想起されにくさこそが、インフラ事業におけるマーケティングの難関の壁でした。

機能的価値から 「社会的な存在価値」 への転換

この状況を打破するために東京ガスが選んだのは、個別サービスの訴求を強化することではありませんでした。

それよりも、自らの存在価値そのものを見つめ直すことでした。

暮らしをまるごと任せられる会社

東京ガスはブランドイメージを 「暮らしをまるごと任せられる会社」 へと再定義しました。

この表現には、単にサービスの幅が広いという意味だけでなく、「信頼」 「安心」 「包括性」 「継続性」 といった、お客さんにとっての心理的・感情的な価値が込められています。

これは、人々が企業に対して持つ価値イメージの階層を引き上げる挑戦と言えます。

今までの 「ガスを安定供給する」 「電気を届ける」 といった実用的な価値を超え、「この企業が社会に存在する意義は何か」 という問いに対する東京ガスの答えです。多くの人たちの生活や社会全体にどのような意味を持つ存在なのかという、より高次元の 「社会的な存在価値」 です。

東京ガスは自らを 「エネルギーを提供する会社」 (機能的価値) から、「暮らしの安心を通じて、人々の豊かさを持続的に支援する企業」 (社会的な存在価値) へと位置づけ直したのです。

東京ガスからの 「暮らしをまるごと任せられる」 という価値提案は、生活における様々な困りごとを、一つの信頼できるパートナーに任せられるという安心感を伴うことにつながります。「あなたの暮らし全体を私たちが支えます」 という関係性の提案なのです。

これによって、東京ガスは 「ガスを売る企業」 から 「生活を支えるパートナー」 へと意味が変わっていくことが期待できます。

想起の多様化による顧客接点の広がり

価値イメージが変わると、人々が東京ガスを思い出す文脈も変化します。

マーケティングの用語を使えば、「カテゴリーエントリーポイント (Category Entry Points (CEP) ) 」 という、想定顧客がサービスの利用を考えたり検討し始める瞬間が広がります。

東京ガスにとって、従来の CEP は 「引っ越し」 「光熱費の見直し」 「機器の故障」 といった、限られた機会で突発的なタイミングでした。これらはいずれも 「機能的価値」 に紐づいた CEP です。

一方、「暮らしをまるごと任せられる会社」 という社会的な存在価値を打ち出すことで、思いつくきっかけは 「家族の暮らしを整えたい」 「もっと快適な住環境にしたい」 「環境に優しい選択をしたい」 「将来の安心を確保したい」 といった時へと広がります。

消費者は 「エアコンをクリーニングしたい」 という具体的な課題が生じた時だけでなく、「暮らしをより良くしたい」 という漠然とした気持ちを持った時にも東京ガスを思い出すようになることが期待できます。

想起される頻度が増え、想起される文脈が多様になることで、ブランドとしての存在感が高まります。

購買基準のアップデート

また、価値イメージの転換は、購買基準のアップデートにもつながります。

消費者が企業を選ぶ基準が、価格の安さや個別サービスの利便性だけではなく、「誰に暮らしを任せたいか」 という信頼・共感・安心の軸へと移行していくというようにです。

消費者にとっての 「良い商品・サービスとは何か」 という購買基準そのものが書き換えられ、「共感できるから選ぶ」 へと判断軸が変化します。価格や機能のみで比較されるのではなく、「この会社の考え方が好き」 「この会社を応援したい」 と思われる存在になっていきます。

 「社会的な存在価値」 を軸にするマーケティング

高次元なブランドイメージを絵に描いた餅で終わらせないために、東京ガスはマーケティングのアプローチそのものを変革しようとしています。

 「らしさ」 の活用と再定義

東京ガスは、長年にわたってガスという生活インフラを安全に届けてきた実績、地域社会と共に歩んできた姿勢、誠実な対応といった、積み重ねられた信用によって支えられています。

このような人々がイメージとして抱く 「東京ガスらしさ」 があるからこそ、「暮らしをまるごと任せられる」 というメッセージに説得力が生まれます。もし新興企業や実績のない企業が同じことを言っても、絵空事に感じるでしょう。

しかし東京ガスには、「この会社なら信頼できる」 という前提がすでに存在していました。東京ガスが価値転換を実現できた背景には、140 年の歴史の中で培ってきた 「安心」 「安全」 「信頼」 という無形の資産があったのです。

重要なのは、この 「らしさ」 を新しい価値文脈の中で再定義したことです。

従来は 「ガスの安全供給」 という文脈で発揮されていた信用を、「暮らし全体の安心」 という文脈へと信頼性を拡張しました。ハウスクリーニングも、リフォームも、防災対策も、すべて東京ガスの 「らしさ」 を体現するサービスとして位置づけるわけです。

消費者の心の中で 「東京ガス = 私たちの生活の安心を守る仲間」 というイメージが形成され、競合他社には簡単に真似のできない独自資産となっていくことが期待できます。

一貫した体験設計

社会的な存在価値を軸にしたブランドイメージを構築するには、「一貫した体験設計」 が不可欠です。

一貫性を担保するための仕組みづくりとして、東京ガスは 2025 年に大きな組織改編を行いました。

それまで散らばっていたマーケティング機能を集約し、2 つのグループとする体制再編です。ひとつは、戦略を立てるところから具体的な施策の実行までを担う 「マーケティング開発室」 。もうひとつは、ブランド全体の体系や表現ルール、顧客体験の一貫性などを管理する 「ブランディング推進グループ」 です。

新体制の狙いは、両グループが企画の早い段階から共同で設計・運用を行う点にあります。

短期的な KPI (コンバージョン率 (CVR) など) を追求するマーケティングの視点と、中長期的な社会との関わり方を重視するブランディングの視点を、常に擦り合わせることが可能になりました。

それまでは、東京ガスのマーケティング活動は 「今月の獲得数」 「CVR」 といった短期的な成果指標に偏っていたとのことです。しかし社会的な存在価値を打ち出すには、「この施策は "暮らしをまるごと任せられる会社" というイメージの構築に貢献しているか」 「お客さんとの信頼関係を深めているか」 という中長期的な視点が求められます。

両チームが協働することで、広告クリエイティブ、デジタルチャネルの設計 (アプリ 「myTOKYOGAS」 の改修など) 、店舗での接客、会員向け施策に至るまで、すべての顧客接点で一貫したブランドメッセージを届けることができます。

消費者が東京ガスと接するあらゆる場面で、「安心」 「信頼」 「暮らし全体への配慮」 といった価値観を感じられるようにする体験全体の設計です。

自社の 「社会的な存在価値」 を定義することの重要性

東京ガスの事例が示すのは、マーケティングの目的を 「お客さんに売ること」 から 「お客さんからの信頼を育てること」 へと広げる大切さです。

社会的な存在価値を打ち出すためには、商品やサービスはその価値観を体現する手段となります。

東京ガスの場合、ガス供給、電気販売、ハウスクリーニング、リフォーム、防災サービスも、すべてが 「暮らしの安心を通じて人々の豊かさを支える」 というブランドストーリーの一部です。企業の行動、デザイン、コミュニケーション、顧客体験のすべてがブランドの物語を紡ぎ、それが積み重なることで、「社会的な存在価値」 が形成されていきます。

東京ガスは自社の存在価値を 「暮らし」 や 「社会との関係性」 で再定義することにより、人々の心の中に 「この会社は私たちの生活にとって大切な存在だ」 という認識を持ってもらえる取り組みを進めています。

社会的な存在価値を軸にしたマーケティングは、一度の施策で完結するものではありません。

商品やサービスを超えた、より高い次元での価値提案によって、お客さんとの長期的な信頼関係を築いていく。そして、社会の中で 「なくてはならない価値ある存在」 として認識されるブランドを構築していくことなのです。

まとめ

今回は、東京ガスのブランディングの事例を取り上げ、学べることを見てきました。

最後にポイントをまとめておきます。

  • 自社の商品やサービスが持つ 「機能的な価値 (できること) 」 にとどめず、企業としての 「社会的な存在価値 (なぜ社会に存在するのか) 」 を定義し、ブランドの中心に据える
  • 長年培ってきた自社の 「らしさ」 を、新しい価値文脈の中で再定義・拡張する。既存の信頼や強みを活かすことで、競合には真似できない説得力のあるブランドメッセージが生まれる
  • 定義した 「社会的な存在価値」 を実現するために、あらゆる顧客接点で一貫したブランド体験を設計する。マーケティングで目指す成果を 「売ること」 から 「価値をもたらし信頼を得ること」 へと転換する