#生き方 #つながり #存在意義
もし、食料や水、住む場所など、生きるための基本的な資源が十分に与えられた 「楽園」 と言える環境を手に入れたら、その社会はどうなるのでしょうか。
1968 年にアメリカで始まったマウスの実験 「ユニバース 25」 は、この問いに予想外の答えを出しました。
生きるために何から何までそろった楽園のような環境で暮らしたマウスたちに何が起きたのか、そしてその結末が現代社会の少子化や孤独の問題にどんな示唆があるのかを考えます。
ユニバース 25
まずは、「ユニバース 25」 の実験が生まれた時代背景から見ていきましょう。
1960 年代の社会背景とキャルフーンの実験
1960 年代、世界では人口爆発への懸念が広がっていました。
18 世紀の人口学者トマス・マルサスが提唱した 「人口は食糧生産よりも速く増加する」 という考え方が再び注目を集め、1968 年にはスタンフォード大学の生物学者ポール・エーリックが『人口爆弾』を出版しました。
この時代に、アメリカ国立精神衛生研究所 (NIMH) で働いていた動物行動学者ジョン・B・キャルフーンは、1950 年代からげっ歯類 (ネズミ目に分類される哺乳類) を使った過密環境の研究を続けていました。
キャルフーンが設計した実験環境は 「ユニバース」 と名づけられ、25 番目にあたる 「ユニバース 25」 は、同種の過密実験として初めて最後まで実施されたものになりました (参考情報) 。
ユニバース 25 は、一辺約 2.57 m、壁の高さ約 1.37 m の正方形の囲いです。壁面には 256 の巣箱、64 本の給水ボトル、16 個の給餌器が設置されました。食料と水、巣材は十分に供給されました。マウスたちに天敵はおらず、流行性の病気が広がらないよう管理されていました。
ここに、NIH の繁殖コロニーから得られた 4 組のつがい (オス 4 匹とメス 4 匹) が放たれました。
[フェーズ A と B] 順調な繁栄
実験は 4 つのフェーズに分けて記録されました。
最初の 104 日間はフェーズ A (調整期) です。マウスたちは新しい環境に適応しながら社会関係を整え、最初の子どもが生まれたところでこのフェーズは終了しました。
続くフェーズ B (資源活用期) では、個体数は約 55 日ごとに倍増するペースで増え続け、315 日目には離乳したマウスが 620 匹に達しました。マウスたちは自然と特定のエリアに住み分け、社会的な階層も形成されていきました。
[フェーズ C] 社会の崩壊が始まる
しかし 315 日目以降、個体数の増加ペースは急に鈍り、フェーズ C に入ります。
繁殖に適した場所や社会的な役割の多くが既存のグループによって占められ、しかも囲いの外へ移動することはできません。既存の社会構造に入り込めなかった若いオスたちは集団から離脱し、囲いの中央付近に集まり、互いに激しく攻撃し合うようになりました。
メスにも変化が起きます。本来はオスが担っていた巣の防衛をメスのマウスたちが自ら行うようになります。攻撃性が高まった結果、自分の子どもにまで攻撃を向けたり、通常より早く巣から追い出したりするようになりました。受胎率は低下し、胎児死亡や離乳前の死亡も増え、育児行動は大きく崩れていきました。
キャルフーンはこう記しています。「フェーズ C の終わりまでに、社会組織の死は実質的に完了していた」 と。
[フェーズ D] 「美しい個体」 と静かな絶滅
フェーズ C の混乱の中で育った世代のマウスたちは、求愛や子育て、縄張りの防衛といった複雑な社会行動を十分に身につけられなくなりました。
その中でキャルフーンが 「美しい個体」 (Beautiful Ones) と名づけたのは、争いにも交尾にも加わらず、食べて、飲んで、眠って、自分の毛繕いをすることに行動がほぼ限られていたオスたちです。
キャルフーンはこの崩壊を 2 つの段階で捉えました。複雑な社会行動を行う能力を失った状態を 「第一の死」 、すなわち精神の死と表現しました。そして 「第二の死」 が、文字どおりの生命の終わりです。
個体数はピーク時に約 2,200 匹に達しました。560 日目には個体数の増加が止まり、600 日目以降は生き残る子どもがいなくなりました。最後の受胎は約 920 日目で、個体群はその後も減り続け、1973 年春までに消滅しました。
食料や水の不足が崩壊の原因だったわけではなく、天敵も存在しませんでした。物質的な資源が豊富にある閉鎖環境の中で、マウスたちの社会行動と繁殖が崩れ、個体群は消滅していったのです (参考情報) 。
この実験は何を示したのか
食料や水、住居といった物質的な条件が十分に満たされていても、社会の中で担える役割が不足すれば、社会組織は崩壊しうる。キャルフーンはそのように考えました。
群れの中で他者と関わり、縄張りを持ち、子育てをするといった社会的な行動も、生き物がその種に固有の行動を維持するうえで重要だとキャルフーンは考えました。
なお、この実験には科学的な限界があることにも触れておかなければいけません。観察研究であり、原因となる要因を厳密に切り分けた実験ではないこと、飼育環境の衛生管理やストレスの測定などに交絡要因がありうること、そしてマウスの結果を人間社会に直接当てはめることには大きな注意が必要だと指摘されています (参考情報) 。
それでも、キャルフーンの実験が提起した 「物質的な豊かさだけで社会は維持できるのか」 という問いは、半世紀を経た今も考える価値があります。
現代社会への示唆
都市の孤独と 「美しい個体」 の影
ユニバース 25 が今も語られる理由のひとつは、現代の人間社会との類似を感じさせる点があるからでしょう。ただし、マウスと人間では社会のつくり方も、環境への適応力も大きく異なるため、ここから先はあくまで比喩として考えます。
私たちは今、高度に発展した都市に住み、たくさんの人たちに囲まれて暮らしています。しかし物理的な距離はとても近いのに、お隣さんの顔も名前も知らないということは珍しくありません。SNS を開けば世界中の誰とでもすぐにつながれる一方で、深い人間関係を築くことの難しさや孤独が社会の課題として語られています。
他者とのコミュニケーションを避け、自分の好きな趣味や限られた世界の中だけで完結して生きる人々の姿はどうでしょうか。争いもなければ深い関わりもない。傷つくこともないけれど、誰かとつながることもない。あくまで比喩ではありますが、その静かな日常は、キャルフーンが観察したマウスの 「美しい個体」 にどこか重なって見えます。
穏やかに見えるその風景から、社会の中で人と関わり、自分なりの役割を持つことの意味を考えさせられます。
少子化を 「生物学的アラート」 と捉える
日本を含む多くの先進国では出生率が低下し、合計特殊出生率が人口を長期的に維持する目安となる人口置換水準 (日本における現在の人口置換水準はおおむね 2.07 とされている) を下回っています (参考情報) 。
子どもを持つかどうかには、経済状況、仕事との両立、住居、子育て支援、将来への見通し、価値観など、さまざまな要因が重なっています。そのため、人間の少子化をユニバース 25 の実験だけで説明することはできません。
そのうえで、社会が新しい命を受け入れ、育てる余裕をどれだけ持てているかという視点は重要です。安心して子どもを育てられる環境や、人とのつながり、将来への見通しが十分にあるかを問い直すきっかけになります。
ユニバース 25 との類比を使うなら、少子化を 「社会というシステム全体が、新しい命を受け入れ育むための余裕をどれだけ持てているかを知らせるアラート」 と捉える見方もできます。ここでいう 「生物学的アラート」 は、実験から直接導かれた科学的な結論ではなく、現代社会を考えるための比喩です。
楽園に本当に必要なもの
では、キャルフーンの実験は 「人類もマウスといずれ同じように滅びる」 という絶望的な予言なのでしょうか。
この実験をひとつの材料として考えられるのは、物理的な豊かさだけで社会の健全さや幸福が自動的に生まれるわけではないということです。そして私たちは、自らの意思で、社会の中に意味のある役割とつながりを築いていくことができます。
理想の社会とは、困難がゼロの状態ではありません。それぞれの人が自分なりの役割を見つけ、他者と関わり合いながら、時にはぶつかり、時に協力して、生きる意味を見出せる社会です。
人類はこれまで、飢えや病気といった目に見える脅威を減らすために、物理的な安全と快適さを高める社会システムを築いてきました。その一方で、豊かさが進んだ社会でも、役割の喪失や孤独といった心の課題は残っています。
だとしたら、次にやるべきことはシンプルです。社会の仕組みを、人々の心を満たし、温かい関係性を築くことを軸にアップデートしていくことです。
たとえばこんな問い直しが考えられます。
- 「このサービスは便利で利益が出るか」 だけでなく、「人たちのつながりを深め、孤独を減らせるか」 を問う
- 「どれだけ効率よく仕事を終わらせるか」 だけでなく、「働く人がやりがいや成長を感じられるか」 を評価する
- 「子どもにどれだけお金をかけるか」 ではなく、「子どもが自己肯定感を持ち、他者と温かい関係を築ける環境を作れるか」 を教育の軸にする
ユニバース 25 では、激しい攻撃や育児行動の崩壊が進む一方で、最後の世代では社会的な関わりから退く個体が増え、やがて繁殖が途絶えました。その結末は、人とのつながりや社会の中での役割について考える材料を私たちに残しています。
まとめ
マウスに食料や水、巣といった基本的な資源を豊富に与えた実験の 「ユニバース 25」 を取り上げ、現代社会に示唆することを見てきました。
学びのポイントをまとめておきます。
- 物質的な豊かさだけで社会の健全さが保証されるわけではない。ユニバース 25 では、資源が豊富な中でも社会行動と繁殖が崩れていった
- 少子化を、社会全体が新しい命を受け入れ育む余裕をどれだけ持てているかを考えるアラートとして捉える見方もできる
- 理想の社会は困難がゼロの状態ではない。一人ひとりが自分の役割を持ち他者と関わり合える場があること
- 物理的な安全や快適さを高めた次のステージでは、心の充足と温かい関係性を軸に社会の仕組みを考えていくことが大切