#マーケティング #選ばれる理由 #エフォートレス

私たちは日々、気づかぬうちに小さな 「手間」 と向き合っています。

スケッチャーズのスニーカー 「ハンズフリー スリップインズ」 が示したのは、構造の隙間を突き、使おうとするときの体験を変えることで 「選ばれる理由」 をつくるというマーケティングでした。

競合がしのぎを削る土俵から一歩引いて、まったく違う価値を生み出す。そこには、他のビジネスに応用できるマーケティングの本質が詰まっています。

スケッチャーズ 「ハンズフリー スリップインズ」 

出典: PR TIMES

スケッチャーズが 2022 年に日本で発売した 「ハンズフリー スリップインズ」 。見た目こそ普通のスニーカーと変わりませんが、最大の特徴は商品名が示す通り 「手を使わずに履けること」 です。

かかと部分に特殊な構造を採用し、足を入れるだけで 「スポッ」 と収まる感覚。靴べらも不要、しゃがむ必要もない。まるで、足が吸い込まれるように自然に履けてしまいます。

価格は 1 万 5000 円前後と決して安くはありませんが、発売から約 3 年でシーズンごとに売上が伸びる成長を遂げています。

直営店の POS データ (販売時点データ) によると、スリップインズの購入者の 8 割が 50 代以上とのことです (参考情報) 。

実は当初は子どもがかかとを踏み潰さないようにという発想からスリップインズは開発されましたが、実際には高齢者、ペットを飼っている人、妊婦さん、ビジネスパーソンなど、幅広い層から支持を集めています。

スリップインズの戦略

スリップインズのヒットの裏には、周到に練られた戦略がありました。

手を使わずに楽に履ける

スリップインズの特徴は、先ほども触れた通り手を使わずに履けることにあります。

玄関で靴を履くとき、私たちは無意識に、少し身をかがめ、指やかかとを靴べらのように使って足を収めます。ここにもし荷物で両手がふさがっていたり、子どもを抱きかかえているとき、あるいは腰が痛いとき、靴を履くという何気ない動作が、実は小さくない負担になっています。

スリップインズは、日常に潜む小さなストレスを取り除いてくれます。足を入れるだけで 「スポッ」 と収まる快感は、一度味わうと元には戻れません。

特に日本は、室内で靴を脱ぐ文化が根付いている国です。自宅の玄関はもちろん、お店の座敷、さらにはキャンプ場のテント内など、靴を脱ぎ履きするのを普通にやっています。スリップインズがあることで、脱いだ靴を履くたびに感じていたわずらわしさから解放されるわけです。

この恩恵を強く感じるのは、これまでスニーカーのビジネスの世界で見落としていた人たちです。

お腹が大きくてかがむのが辛い妊婦さん、膝や腰に不安を抱える高齢者、そして両手がふさがりがちな子育て世代のママやパパたち。こうした人たちにとって、スリップインズの手を使わずに楽に靴が履けるという価値は、生活の質を向上させる福音とも呼べるものでしょう。

業界構造の隙間を突く

戦略の観点でスリップインズが興味深いのは、「構造的な隙間」 を突いたことです。

あらためてスニーカー市場を見渡すと、各ブランドは似たような土俵で戦っています。ナイキやアディダス、ニューバランスは 「速く走れる」 「疲れにくい」 「かっこいい」 といった価値で競い合い、レッドオーシャンの様相を呈しています。

スケッチャーズの競合他社も確かに足の踵には注目していました。ナイキの Nike Air シリーズは、かかとに衝撃吸収に優れたクッションを搭載し、履き心地を良くします。4:40しかし、それはあくまで 「履いているときの快適性」 です。「履くとき」 の手間を省くためではなかったのです。

スケッチャーズが見出した 「業界構造の隙間」 とは、まさにこの点でした。視点をぐっと手前にずらし、見過ごされていた靴を履く動作に目を向けたのです。

デザイン性やファッション性よりも 「手を使わずに履ける」 という利便性を前面に打ち出し、「履く動作そのものを楽にする」 という価値をもたらすのがスリップインズです。

靴を履くときのひと手間は、誰もが心のどこかで感じていたけれど、「スニーカーとはそういうものだ」 とあきらめていた問題でした。業界構造の隙間に静かに横たわっていた潜在的なニーズをスリップインズは掘り起こしたのです。

マーケティングへの学び

スリップインズの事例は、マーケティングで大切なことを私たちに教えてくれます。

エフォートレスという価値

今回のスリップインズの事例をマーケティングの観点で整理し直すと、「顧客のエフォートレス体験を最大化した」 ということになります。

エフォートレスとは 「努力が要らない」 「手間がかからない」 という意味です。

スリップインズに話をつなげると、靴を履くときのエフォートをなくし、履くという行為をすることへの物理的なハードルを下げ、同時に心理的な負担感も取り除いたのです。

私たちは何か新しい行動を起こしたり、商品を選んだりするとき、必ず頭の中で 「どれくらい手間がかかるだろうか」 「面倒くさくないだろうか」 と無意識に計算しています。この見えないコストが、購買や利用の障壁になることは少なくありません。

スリップインズは、「しゃがまなくていい」 「履くときに指を入れる必要がない」 「靴べらが不要」 「靴のかかと部分が曲がったのを指で直さなくていい」 という点で、他のスニーカーよりも負担が少なく、エフォートレスな商品なのです。

 「使い始めの快適さ」 という普遍性

私たちはつい、商品やサービスが選ばれる理由は、デザインのかっこよさや、使っている最中の優れた機能性にあると考えがちです。

しかし、スリップインズが示したのは、最初の一歩、つまりお客さんが商品を使い始めようとする瞬間にこそ、勝負を決するチャンスが眠っているということです。

多くのブランドが血眼になって競争している 「使っているときの価値」 ではなく、「使い始める瞬間の価値」 に違いを生み出したこと。この視点の転換こそが、スリップインズの人気を支える原動力となりました。

この 「使い始めの快適さ」 という価値は普遍的です。年齢や性別、ライフスタイルを問いません。だからこそ、当初の若者向けというブランドイメージを乗り越え、これまで届かなかったシニア層や、さらには革靴タイプの投入によってビジネスパーソンまでをも巻き込み、スリップインズは幅広い層から支持を集めることに成功したのでしょう。

ブランドの価値は、顧客体験のあらゆる瞬間に宿ります。その中でも、見過ごされがちですが、実はインパクトを生む可能性があるのが、使おうとする瞬間なのです。

マーケティングの本質

スリップインズの事例は、マーケティングとは何かという根源的な問いに対する、ひとつの示唆を示しています。

マーケティングとは 「お客さんから選ばれる理由をつくる活動全般」 です。活動全般と言っているように、マーケティングを広く捉えたものです。

お客さんに選ばれるとは、商品を買ってもらえる、使ってもらえる、来店してくれる、指名されることです。こうしたことへの 「選ばれる理由」 をつくり、商品やサービスがお客さんから選ばれ続けることによって、商品は生き残っていけます。ひいては自分たちのビジネスも存続できます。

スケッチャーズは、他社と同じ土俵で戦うのではなく、「履き始めが圧倒的に楽だから」 という、まったく新しい選択基準を市場に提示しました。これは、今まで誰も意識的に言語化し、強調してこなかった、新しい 「選ばれる理由」 をつくり出したことにほかなりません。

マーケティングの役割

マーケティングとは 「お客さんから選ばれる理由をつくる活動全般」 と表現しましたが、商品を購入するかどうかを最終的に決めるのは、いつだってお客さんです。

企業がどれだけ自社の製品を 「良いものだ」 と叫んでも、その理由が生活者にとって自分ごととして感じられず、実感のあるものでなければ、選ばれることはありません。

だからこそ重要なのは、生活者の目線になり、生活者の立場になって日常のどんな瞬間に不便を感じ、どこに負担を覚え、どうなれば価値を感じるのかを、解像度高く理解することです。

 「自分たちは、誰のどんな問題を解決したいのか」 「なぜ、その人は自社の商品を選ぶのか」 。

これらの問いからビジネスは始まります。

選ばれる理由を偶然に委ねるのではなく、顧客理解にもとづいて価値を定義し、顧客価値をお客さんの言葉で言い換え、それを伝え、体験してもらい、価値をもたらす。この愚直な積み重ねこそがマーケティングの役割です。

まとめ

今回は、スケッチャーズのスリップインズの事例を取り上げ、学べることを見てきました。

最後にポイントをまとめておきます。

  • 構造の隙間を突く。競合がひしめく中での既存の競争軸ではなく、顧客が 「当たり前」 だとあきらめていたり、見過ごされていた不便さや手間に注目することで、競争を回避できる独自の価値 (構造的な隙間) を発見できる
  • エフォートレスの価値をつくる。商品やサービスに関する物理的・心理的な手間 (エフォート) を取り除くことが、お客さんから選ばれる理由になる
  • 使おうとするときの価値を高める。使用中の快適さだけでなく、使おうとする瞬間の体験をより良くする
  • マーケティングは 「お客さんから選ばれる理由をつくる活動全般」 。顧客の立場になり 「選ばれる明確な理由」 を設計する
  • 商品やサービスに実装し、それを的確なコミュニケーションで伝える。商品・サービスを使ってもらいお客さんに価値をもたらす